恵文社一乗寺店 スタッフブログ

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象、人、写真、本―記憶を運ぶもの。『はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』

昨年、東京の武蔵野市立吉祥寺美術館で開催された「コンサベーション_ピース  ここからむこうへ」展の展示の一環として製作された記録集『はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』。

特殊な造本のため手作業により製作された本書は、展示期間中からその企画・編集内容のユニークさと書籍としての質の高さから話題を呼び、展示終了後もミュージアムショップや全国のいくつかの書店でさらに広がりを見せ、今年に入り美術館が制作発行する書籍としては異例の重版となりました。

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1949年、戦後の日本に最もはやくやって来たアジア象の「はな子」は、2016年に69歳で亡くなるまで、その生涯のほとんどを井の頭自然文化園で過ごし、日本で飼育された最長寿の象として昭和から平成の時代にその場を訪れた多くの人々により記憶されています。

本書は、市民がそれぞれ個人的に撮影した「はな子」との記念写真を集め、選び、時系列に並べ、さらに撮影された日の飼育日誌や「はな子」が来日した際の新聞記事など様々な記録を通じて、戦後を生きた人びとの多くにその存在を知られながら、厳密に辿られることのなかった一頭の象の生涯を描きだすという構成が取られています。

来日最初期の1950年にはじまり、亡くなった2016年にいたるまで、全く無関係な人々がそれぞれに撮影した写真は、押入れの奥に仕舞われていたアルバムの一枚からハードディスクに保存されていたデジタルデータのワン・ピースまで、家族の記録として個人的に所持・保管されていたもの。

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そこに「はな子」という共通の存在が読み取られ、集め並べ、束ね綴じられることで、写真の背景であったはずの「はな子」という存在は書籍のなかでやがて前景化し、親密でプライベートな家族の肖像の連なりは、一頭の象の生きた69年の時間を明かすような機能を果たします。

そして同時に、「はな子」という存在が生きた時間の表れとして捉えられたこれらの写真の集積からは、まったく無関係なはずだった人びとのあいだに、その前に立ち、ポーズを取り、シャッターを押したという経験や行為の同一性という繋がりが見出されます。

この夜の間中、それはそこにあって、ああ塔を見ているなと私の承知している友人たちのすべてに、パリを越えて私を結びつける。この塔のおかげで、しっかりとした中心部に塔を持つ流動体と、私たちはなるのである。塔は親しい友人である。

『エッフェル塔』ロラン・バルト 宗左近 / 諸田和治 訳

パリの人びとがエッフェル塔の存在を通じて同じようにその塔に紐づけられた他者たちを感じ取っているように、「はな子」という一頭の象の前に立つという共通の行為によって、異なる時間や記憶を生きている個々人は重なり合います。

本書には、被写体や撮影者、提供者として本書の写真に関わった人びとへ編者が共通の質問を投げかけ、それぞれから寄せられた回答を集めた小さな冊子も付されています。「はな子」とのエピソード、撮影された当時のエピソードなどとともに編者から投げかけられた「あなたがこれまでに失った大切なものを一つ選んで、その経験を教えてください」というアンケートは、提供者たちそれぞれの個人的な体験と記憶を引き出します。 

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同じ「はな子」という存在を見てきた人びと、「はな子」がいた風景のなかに生き、共に「はな子」という存在を失った人びとがそれぞれに語る喪失。ほんらい無関係な他者とは共有が難しいはずのきわめて個人的な体験や記憶は、「はな子」という共通の「場」を通じることでここに記され、読まれ、本書を開くまで「はな子」を知らなかったかもしれないまったく別の誰かにすら、新たな経験/記憶として憶われる可能性を持つことになります。その時、それを読む人も書籍を通じて記憶を受け継ぐメディアのようにして存在し始めます。

 

個々に撮影された家族写真を集めることで別の文脈を発見し、いつもそこにいた象を起点にする(人と象をひっくりかえす)こと、起点となった象の存在から放射状に広がる人々が個別に持つ記憶へと還っていく(象と人をひっくりかえす)こと。そんな視点の往還とともに、本書はフィジカルなレベルでも実際にイメージをひっくり返すというユニークな造本が採用されています。

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様々なページに仕掛けられた「ひっくりかえす」ことのできる貼込みや差込みイメージ。その記録の表面と裏面の関係には一定のルールが設けられているわけではなく、アルバムから剥がされた写真の裏面や、同じ日に撮影された別アングルの写真、家族内の別の人物を被写体にした写真、表面では8歳だった女の子が裏面では自身の1歳の子どもを連れて「はな子」の前に立つ写真など、めくるたびに現れるもう一つのイメージにはそれぞれに異なる繋がりや飛躍があり、ときには一息に時間を飛び越えるような感覚を覚えたり、そこから様々な想起がはたらくような作りになっています。

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また、時間に浴されることで変色した写真そのものの再現からは、戦後の高度経済成長期に普及したフィルムカメラとそれによって撮影された写真というメディアそのものが、人びとにとっての記憶を想起させる記録物として不可欠な物であり、時代と不可分な役割を果たしてきたことがあらためて感じられます。

 フィルムや現像された写真は直接触ったり手渡すことのできる外在化された過去であり、そのようなフィジカルな記録物を持っていた時代の記憶の在り方や想起の質そのものが、テクノロジーの進歩によって氾濫する「共有されることを前提とした体験や記録」の時代のなかで失われつつあるのかもしれないということ。そんなことにも思いは及んでいきます。

 

人びとの記録が紡ぐ「はな子」の生涯、「はな子」によって共有される個人の記憶、写真がひきだす人びとの語り、語られたものを受け渡すメディアとしての一冊の本。

一息に言い表すことのできない多様な魅力をそなえた本書。「はな子」と同じ時代を生きてきた方々はもちろん、「はな子」が失われたあとの現在を生きる方たちにもぜひ手に取って体験していただきたい一冊です。

 

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(涌上)